2012年7月24日火曜日

異能の人たち・味岡伸太郎、渡辺英司


【1.Straight Line】

今回のイベントで懸案となったのは、芸術家とは職能なのかという疑問。冠した現代美術という言葉自体漠然としていているくせに歴然と特定の市場なり一定の分類を指し示しているという座りの悪さの中で、それは際立っているのだけれど、必ずしもそれは負の硬直ばかりでなく、正の問題提起として捉えられる点が多々あった。特に渡辺英司氏、村田弘志氏、そして味岡伸太郎氏だ。味岡氏に初めて会ったのは、私が18か19歳の時に長者町のギャラリーで、もう30年以上昔。その作品は書なのか美術なのか判然としないままずっと私の脳裏にこびりついてきた。そして「そうした峻別は作る側と見る側の居住まいを正す上で必要なものであり、且つ時には真贋を見きわめる眼を曇らす。」・・・あの列石はそのように語っていた。今回の味岡氏の作品、『Straight Lineあるいは線庭』だ。豊橋公園内に埋没する様々な石材を発掘し並列させることは、意味から言えば単に歴史のレイヤーを提示しているに過ぎない。しかし不思議な事に眼前の岩石群は味岡伸太郎の強烈な表現になっている。これはもう、何をどうしたかという形式や技術の問題ではない。強いて言うならば生き様の反映だ。さらに蛇足をひとつ補うならば、あれだけの石材をほぼ一人で設置し終える身体能力はどのようにして培われたのか?。あの作品をして独善的との批判があったと聞くに及んだ際、正直私は失笑してしまった。またある友人は味岡氏を「体幹のしっかりした人」と評していたが、今回の作品はまさにイベント全体の脊柱をなしていた。某画廊で同期展示されていた味岡氏の「書」の中で「山吹」と題された一点が、私には何かしら言語にならない断末魔の痕跡に見えて仕方なかったのが・・・そんなことを思いながら、30年前長者町のギャラリーでの思い出を語ると、味岡氏は「おお、奇遇だな俺もあの作品を思い出していたんだ。」と懐かしい青い数点を取り出して見せてくれた。

【2.孤高の陽だまり】

   しろいじめんに 
 くろいたね 
 このなぞとくには 
 べんきょうしなくちゃ 
        (谷川俊太郎訳)

このマザーグースの謎の答えは「テキストあるいは眼球」らしい。では謎を解く為の勉強・scholarとは?。・・・たとえば渡辺英司が白い地面に蒔いた黒い種・言葉はやがて発芽生長し絡み合ってテキストを書き換えてゆく。
渡辺は場をつくる人だ。あるいは場を架ける人と言った方が適当かもしれない。それは美術の文脈の中でのインスタレーションとかそういう事ではなく、彼が生得的に持っている人柄のようなものとして・・・。わたしが見知っている限り彼がそのように紡いできた数々の「場」。今は消え去って記憶の中にのみ在る透明で堅牢なあの場所を何と呼んだらよいのか?。
今回のイベントの立案から実施の最中、わたしはずっと彼に「文脈」についての話しをしていたような気がする。それは昨年の震災と無関係ではない。仮に鎮魂画を偽善というなら、逆に心の闇を描く制作もまたマーケティングのひとつだ。現代美術といういかがわしいカテゴライズはもとより美術という形式自体さえ流されてしまったかもしれない今、それらは虚しい議論だ。そのとき渡辺が「アートどころか人工物・自然物という対立概念すらまやかしだぜ。」と言っていたコトバが心に沁みる。
わたしは今回彼が見せてくれたいくつかの展開の中で、丸栄でのバリエーションズこそが真骨頂ではなかったかと思っている。その撤去の日、昼下がりの暖かな日差しの中で、ふとわたしの脳裏に浮かぶ言葉があった。「家庭」だ。
「美術」という言葉と同様に明治維新以後登場した翻訳語であり、内村鑑三による造語とも言われるその言葉。今だ定着していない感のある曖昧な言葉は場所を指すものだろうか?。ひょっとすると家族という概念とは無関係に存在しうるのではないかとさえ思わせるその陽だまりのような「場」を彼は紡いでいるのか?。

2012/3/14, Wed

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