
「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる 」石川啄木。
この「東海の小島」とは何処かという謎は、よく話題になる。定説では北海道の大森浜となっているらしいし、一方では、これは風景をを詠んだものではなく心情の象徴であり東海とは日本列島そのものをさす言葉だという説などある。
珍説としては、愛知県豊橋市の小島町をを指しているというものがある。わが家の目と鼻の先だ。けれどもたしかにここに白浜はあるが磯はない。第一、啄木とは縁もゆかりもない。この珍説、わたしが小学生のとき教頭だった多米田という人が言っていた。彼はこうも言っていた。小島はもともと本当に海に浮かぶ島だったのだ、と。このあたりの人たちが集落のことを島と呼ぶのはその名残だ、と。・・・縄文海進ということを考えればそれも一理あるが、五千年以上前のその地理と啄木とは一体全体どんな関係があるというのか?。
「春さめにぬれてひろはんいらご崎 恋路ヶ浦の恋わすれ貝」
小島町から50キロほど西に向かうと渥美半島の先端・伊良湖岬に恋路が浜がある。ここには白浜も磯もある。島崎藤村の「椰子の実」の詩に歌われた場所でもある。
藤村の「椰子の実」は明治34年に刊行されている。その3年後、19歳の啄木はのちに結婚する堀合節子と青森、小樽のあたりを旅している。このとき二人は当時流行だった「椰子の実」の詩をくちずさみながら大森浜を歩いたのではないだろうか?。あるいは大森浜を恋路が浜に見立て、流刑になりながらも夫婦として添い遂げた古代の男女に自分たちをなぞらえて。
明治42年、24歳になった啄木は藤村宅を訪ねている。このときもしかすると啄木は大森浜での思い出を藤村に語ったかもしれない。藤村は藤村で「椰子の実」の詩は柳田国夫の文章に触発されたもので、自分もまた恋路が浜には行った事がないという作詩のエピソードを聞かせたかもしれない。
そして翌明治43年、長男真一が誕生するも病死。困窮と悲しみの最中、その年の12月に刊行された『一握の砂』の冒頭に収められているのが東海の小島の歌だとすれば、そこには妻節子との幸せな思い出が詠み込まれているような気がしてならない。
ところで渥美半島の太平洋側は古来伊勢さらには近畿へとつながるルートだった。それゆえ東大寺の瓦を焼いた古窯跡がある。伊勢街道とは今の国道42号線のことなのだけれど、この経路は一時期海没して使用出来なかった時期があった、という記事を先日どこかで見かけた。ということは、縄文時代よりずっと後にも渥美半島が群島だった時期があるということか?・・・混乱した。
よくよく調べてみると伊勢街道が賑わったのは16世紀までで、当時のそれは海岸沿いにつらなっていたらしい。それが1707年の地震津波で水没し、1854年の地震で壊滅したと、そういうことらしい。(現代の伊勢街道とも言える国道42号線は内陸側にあって起伏の激しい道筋になっている。)
それにしても「片浜十三里皆崖崩る。」という記述が本当ならば、1854年の安政地震とは渥美半島の太平洋岸全域が一斉に海になだれ落ちる「未曾有の」大災害だったということだ。伊古部海岸などの切り立った崖はその名残だろうか?。
ともかく地震津波による伊勢街道の崩壊。人の往来から見放されると、耕作にも不向きな旱魃地帯である渥美半島は、まさに不毛な陸の孤島となった。
明治以降は広大な軍事演習場として活用されたが、この地が日本を代表する農業生産地として真に蘇るのは第二次大戦後の豊川用水路開通まで待たねばならない。
今年、啄木ゆかりの東北の地を大災害が襲った。東北をかつての渥美半島のような陸の孤島にしてはならない。今日、大晦日に強くそう思った。
