2012年2月19日日曜日

異能の人たち


豊橋で開催中のアートイヴェントでの味岡伸太郎氏の作品について書こうと思い、豊橋市の動物園の沿革について調べていたら、とてつもなく愉快な人物に出くわした。安藤政次郎、豊橋市総合動植物公園の前身・安藤動物園の創立者だ。

かつて、現在の豊橋市大手町あたりには染物屋が立ち並ぶ一角があったらしい。安政2年・1855年、政次郎はその紺屋町の染物店の長男として生まれた。22歳の折に郷里を遠く離れた静岡市で新聞販売店を開業しているが、そこまでのいきさつはわからない。当時、染物屋は帆前掛けの生産などで大いに賑わっていたというから、家業が傾いてのこととは考え難い。思うに政次郎は新しもの好きの面白がりだったのではないだろうか?。そういう気質の人は今の豊橋でもよく見かける。

3年後、25歳になると政次郎はさらに文明開化に沸き立つ横浜市に居を移し新聞販売店を拡大。当時の彼の姿をとらえた写真が残っている。染物屋の倅らしく自分で染め上げたのか、何やら派手ないでたちで、担いでいる新聞の箱には日の丸らしき旗まで立っている。小柄だが端正な顔立ちの二枚目。政次郎はたちまち「新聞小政」の愛称で人気を博す横浜のアイドルになったらしい。新聞配達の青年が街のアイドルになるというのは、今では理解しづらいところがあるけれど当時の新聞というものはそれだけ新奇なメディアだったのかもしれない。ともかく政次郎の写真や錦絵が売られ、歌舞伎役者が新聞小政を演じる舞台演目まであったという。

ところが政次郎は32歳で突如豊橋に戻り養豚業を始める。翌年結婚。実家近くの陸軍歩兵18連隊の御用商人としても稼ぎながら、元来動物好きの性格だったらしく猿や鳥、兎などを屋敷内で飼い始めた。その後動物は、熊、カワウソ、狼、ニシキヘビ、ワニと増え、果ては駱駝、ライオンまでも飼育するに至り、44歳の時ついに豊橋駅前に「安藤動物園」を開業する。鉱山開発事業にも着手し、得た資金によりさらに動物園を拡充させ、明治45年、政次郎57歳の折には駅前道路拡張による移転代替地として花田町に2500平方メートルの敷地を入手。約50種、250点の動物が展示される民間動物園として全国でも特異な存在になったという。昭和5年、政次郎75歳で没すると「安藤動物園」は子息により豊橋市に寄付され、現在約40ヘクタールの広大な敷地に動物園、植物園、博物館、遊園地を併せ持つ豊橋市総合動植物公園の礎となった。


安藤政次郎の生き様はまさに骨太奔放な明治人という感じだけれども、私は同じく豊橋にゆかりの服部長七という土木技士を思い出した。

天保11年・1840年、現在の碧南市あたりの左官職人の長男として生まれた服部長七は安藤政次郎よりも15歳年長だ。若い頃から飛ぶ鳥落とす勢いだったらしき政次郎とは違い、長七はかなり苦難の二十代を送った様子。早くに父を亡くし職を転々としながら明治六年34歳の折、一念発起上京し日本橋あたりに饅頭屋を開業するも、店舗のある土地の水捌けが酷く悪く相当に悩まされたという。しかし何が幸いするかわからない。長七は亡き父から受け継いだ左官技術を駆使し独自に敲き土に改良を施しながらそれを克服してしまった。その一部始終を観ていた人物が時の内務卿・大久保利通に推薦。大久保邸の土間工事を請け負うことになる。

これは推測なのだけれど私利を廃し改革を断行し時に冷徹とまで言われた大久保利通は長七の実直な性格を一目で見抜いたのではないだろうか?。長七はこのあと維新三傑のもう一人、木戸孝允を紹介され彼の邸宅の工事を請け負ったのを皮切りに僅か数年のうちに宮内省の工事を請け負うまでにのぼりつめている。父譲りの左官の勘があったとしても、つい先だってまで饅頭屋を営んでいた青年には異様とも言える出世。そこには大久保公との信頼関係という後ろ盾があったと観るのが自然ではないか?。長七もその期待に応えるように、この数年のうちに敲き土の改良研究をさらに進め、水中でも頑強にに固まる配合を開発している。のちにお雇い外国人技士たちによって「人造石」と呼ばれるその新素材は水利工事において大変な威力を発揮したらしいし、現在でも世界遺産アンコール・ワットの遺跡修復に採用されているという。また、今では砂防・治水の父として名高いオランダ人技士ヨハニス・デ・レイケの設計による四日市港の潮吹き堤防の独創的アイデアは、施工にあたった長七との共同だったとする説もある。デ・レイケもまた兼業農家の築堤職人の子として生まれ、生え抜きの学者技士ではなく「現場からのたたきあげの人」であったというから二人の交流は想像するに楽しい。

そんな長七が神野金之助の依頼を受け豊橋の牟呂用水と神野新田の改修工事に着手したのが明治26年。長七、53歳の時。新城市一鍬田の牟呂松原頭首工には長七が人造石工法で築いた取水口の美しい石組みが残されている。そのころ長七率いる服部組は東京銀座1丁目に本店を構え、全国数十カ所に支店を持つ大企業にまで成長していた。しかし彼は利益追求の経営には一切興味がなく、その地域に必要とあれば採算度外視の工事まで引き受けたという。そして65歳、突然の引退。以降は岡崎の岩津天満宮の再興にのみ余生を捧げている。


政次郎にしても長七にしても、その生き様の明確さというか・・・無垢さというか・・・選択に澱みがないのは明治という時代のなせるところなのか、現代の私たちには土台無理なことなのかと、つい思ってしまう。

そんなことは決してない。それは今回私がアドバイザーとして関わった展覧会を観てもあきらかだ。

ただ、昨年の震災以降あらゆるものごとの真贋が露呈してしまった。そんな気がしてならない。