放蕩地理学
2013年7月9日火曜日
山本太郎さんの風格
10数年前、宮尾登美子先生の「天涯の花」文学碑デザインに携わった折、建立地選定のために小説の舞台である四国の最深部、徳島県・剣山山中に一ヶ月ほど滞在した。同時にNHKによるドラマ化が始まっていて、当地には菅原文太さんをはじめ数名の俳優さんや撮影陣がいらっしゃった。ところがどういうわけか、連日の悪天候で撮影は遅々として進まない。実は同地は知る人ぞ知る霊山で、地元からは撮影開始時の無作法が祟っているのだとの噂も出ていた。そんなまさかと、わたしは思っていたが、撮影スケジュールを調整するNHKの担当者氏の憔悴ぶりは尋常ではなく「こうなったら、少し早めにアイツを呼ぼう。」と、ドラマ終盤に登場する予定の若い俳優さんに催促の電話をしていた。
そして翌日か、翌々日、列車とバスを乗り継いで彼は一人でひょっこり現れた。素晴らしい満面の笑みをたたえながら。すると、それまでどんよりと落ち込んでいた現場の雰囲気が一変してしまったのだった。彼はそうした風に、様々な現場での雰囲気作りに独特な力を発揮するので、多くのプロデューサーから絶大な信頼を得ているということだった。
その彼、今や脱原発運動のリーダー的存在となった山本太郎さんだ。先日、静岡県湖西市での「朝日のあたる家」上映会には選挙活動中にもかかわらず強行軍で駆けつけ、熱のこもったスピーチを聞かせてくれた。
そして昨日、知人が送ってくれたツーショット写メでの太郎さんの顔は少し浮腫んでいるように見える。凄まじいプレッシャーからくる疲労もあるだろうが、なにかこう、世界の毒素を吸い取っているかのような聖人の風格を感じてしまった。
2013年5月31日金曜日
今さらながら、若松孝二「11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち」の感想
持丸博役の俳優が異様に老けて見えるのが印象的だった。私らが子
もう一つ印象に残っているのが、楯の会の血判状の文字が決して達
現実の楯の会の血判状は見たことがないが、映画の中のそれは「美
ポール・シュレイダーの「MISHIMA」の対極にあるようなこ
若松監督が原発問題の根底を抉り出す筈だった次回作を完成させる
それから、私が以前ロケハンを手伝った園子温監督「ちゃんと伝え
※ この文章を書いてから、実際撮影に関わった方から、血判状のシーンは俳優陣がその場で書いたものであり、一発OKだったと聞いた。
教えを請うたことはありませんが、私の母校で教鞭もとられていた若松先生のご冥福をあらためてお祈りいたします。
2013年3月25日月曜日
「竹浪音羽の絵画の場所」と「映画・マイ・バック・ページ」をめぐって
2012年7月24日火曜日
異能の人たち・味岡伸太郎、渡辺英司
【1.Straight Line】
今回のイベントで懸案となったのは、芸術家とは職能なのかという疑問。冠した現代美術という言葉自体漠然としていているくせに歴然と特定の市場なり一定の分類を指し示しているという座りの悪さの中で、それは際立っているのだけれど、必ずしもそれは負の硬直ばかりでなく、正の問題提起として捉えられる点が多々あった。特に渡辺英司氏、村田弘志氏、そして味岡伸太郎氏だ。味岡氏に初めて会ったのは、私が18か19歳の時に長者町のギャラリーで、もう30年以上昔。その作品は書なのか美術なのか判然としないままずっと私の脳裏にこびりついてきた。そして「そうした峻別は作る側と見る側の居住まいを正す上で必要なものであり、且つ時には真贋を見きわめる眼を曇らす。」・・・あの列石はそのように語っていた。今回の味岡氏の作品、『Straight Lineあるいは線庭』だ。豊橋公園内に埋没する様々な石材を発掘し並列させることは、意味から言えば単に歴史のレイヤーを提示しているに過ぎない。しかし不思議な事に眼前の岩石群は味岡伸太郎の強烈な表現になっている。これはもう、何をどうしたかという形式や技術の問題ではない。強いて言うならば生き様の反映だ。さらに蛇足をひとつ補うならば、あれだけの石材をほぼ一人で設置し終える身体能力はどのようにして培われたのか?。あの作品をして独善的との批判があったと聞くに及んだ際、正直私は失笑してしまった。またある友人は味岡氏を「体幹のしっかりした人」と評していたが、今回の作品はまさにイベント全体の脊柱をなしていた。某画廊で同期展示されていた味岡氏の「書」の中で「山吹」と題された一点が、私には何かしら言語にならない断末魔の痕跡に見えて仕方なかったのが・・・そんなことを思いながら、30年前長者町のギャラリーでの思い出を語ると、味岡氏は「おお、奇遇だな俺もあの作品を思い出していたんだ。」と懐かしい青い数点を取り出して見せてくれた。
【2.孤高の陽だまり】
しろいじめんに
くろいたね
このなぞとくには
べんきょうしなくちゃ
(谷川俊太郎訳)
このマザーグースの謎の答えは「テキストあるいは眼球」らしい。では謎を解く為の勉強・scholarとは?。・・・たとえば渡辺英司が白い地面に蒔いた黒い種・言葉はやがて発芽生長し絡み合ってテキストを書き換えてゆく。
渡辺は場をつくる人だ。あるいは場を架ける人と言った方が適当かもしれない。それは美術の文脈の中でのインスタレーションとかそういう事ではなく、彼が生得的に持っている人柄のようなものとして・・・。わたしが見知っている限り彼がそのように紡いできた数々の「場」。今は消え去って記憶の中にのみ在る透明で堅牢なあの場所を何と呼んだらよいのか?。
今回のイベントの立案から実施の最中、わたしはずっと彼に「文脈」についての話しをしていたような気がする。それは昨年の震災と無関係ではない。仮に鎮魂画を偽善というなら、逆に心の闇を描く制作もまたマーケティングのひとつだ。現代美術といういかがわしいカテゴライズはもとより美術という形式自体さえ流されてしまったかもしれない今、それらは虚しい議論だ。そのとき渡辺が「アートどころか人工物・自然物という対立概念すらまやかしだぜ。」と言っていたコトバが心に沁みる。
わたしは今回彼が見せてくれたいくつかの展開の中で、丸栄でのバリエーションズこそが真骨頂ではなかったかと思っている。その撤去の日、昼下がりの暖かな日差しの中で、ふとわたしの脳裏に浮かぶ言葉があった。「家庭」だ。
「美術」という言葉と同様に明治維新以後登場した翻訳語であり、内村鑑三による造語とも言われるその言葉。今だ定着していない感のある曖昧な言葉は場所を指すものだろうか?。ひょっとすると家族という概念とは無関係に存在しうるのではないかとさえ思わせるその陽だまりのような「場」を彼は紡いでいるのか?。
2012/3/14, Wed
2012年3月20日火曜日
野火
去る3月15日、ふと思い立って岡崎の岩津天満宮に行っわたしはもともとこういう事が多々ある。風景に関する記
けれども今回のように軽い嗚咽と共に涙してしまうまでの
さて、わたしの意味不明な嗚咽はこうした歴史に呼応して
人間は、ものがたりなしでは生きてゆけない。けれどもそ
あの時、谷一郎があの指摘をしてくれなかったら今の私は
それらのことがらと前後どちらだったか、時期は忘れてしまったが、谷一郎が薦
2012年2月19日日曜日
異能の人たち

豊橋で開催中のアートイヴェントでの味岡伸太郎氏の作品について書こうと思い、豊橋市の動物園の沿革について調べていたら、とてつもなく愉快な人物に出くわした。安藤政次郎、豊橋市総合動植物公園の前身・安藤動物園の創立者だ。
かつて、現在の豊橋市大手町あたりには染物屋が立ち並ぶ一角があったらしい。安政2年・1855年、政次郎はその紺屋町の染物店の長男として生まれた。22歳の折に郷里を遠く離れた静岡市で新聞販売店を開業しているが、そこまでのいきさつはわからない。当時、染物屋は帆前掛けの生産などで大いに賑わっていたというから、家業が傾いてのこととは考え難い。思うに政次郎は新しもの好きの面白がりだったのではないだろうか?。そういう気質の人は今の豊橋でもよく見かける。
3年後、25歳になると政次郎はさらに文明開化に沸き立つ横浜市に居を移し新聞販売店を拡大。当時の彼の姿をとらえた写真が残っている。染物屋の倅らしく自分で染め上げたのか、何やら派手ないでたちで、担いでいる新聞の箱には日の丸らしき旗まで立っている。小柄だが端正な顔立ちの二枚目。政次郎はたちまち「新聞小政」の愛称で人気を博す横浜のアイドルになったらしい。新聞配達の青年が街のアイドルになるというのは、今では理解しづらいところがあるけれど当時の新聞というものはそれだけ新奇なメディアだったのかもしれない。ともかく政次郎の写真や錦絵が売られ、歌舞伎役者が新聞小政を演じる舞台演目まであったという。
ところが政次郎は32歳で突如豊橋に戻り養豚業を始める。翌年結婚。実家近くの陸軍歩兵18連隊の御用商人としても稼ぎながら、元来動物好きの性格だったらしく猿や鳥、兎などを屋敷内で飼い始めた。その後動物は、熊、カワウソ、狼、ニシキヘビ、ワニと増え、果ては駱駝、ライオンまでも飼育するに至り、44歳の時ついに豊橋駅前に「安藤動物園」を開業する。鉱山開発事業にも着手し、得た資金によりさらに動物園を拡充させ、明治45年、政次郎57歳の折には駅前道路拡張による移転代替地として花田町に2500平方メートルの敷地を入手。約50種、250点の動物が展示される民間動物園として全国でも特異な存在になったという。昭和5年、政次郎75歳で没すると「安藤動物園」は子息により豊橋市に寄付され、現在約40ヘクタールの広大な敷地に動物園、植物園、博物館、遊園地を併せ持つ豊橋市総合動植物公園の礎となった。
安藤政次郎の生き様はまさに骨太奔放な明治人という感じだけれども、私は同じく豊橋にゆかりの服部長七という土木技士を思い出した。
天保11年・1840年、現在の碧南市あたりの左官職人の長男として生まれた服部長七は安藤政次郎よりも15歳年長だ。若い頃から飛ぶ鳥落とす勢いだったらしき政次郎とは違い、長七はかなり苦難の二十代を送った様子。早くに父を亡くし職を転々としながら明治六年34歳の折、一念発起上京し日本橋あたりに饅頭屋を開業するも、店舗のある土地の水捌けが酷く悪く相当に悩まされたという。しかし何が幸いするかわからない。長七は亡き父から受け継いだ左官技術を駆使し独自に敲き土に改良を施しながらそれを克服してしまった。その一部始終を観ていた人物が時の内務卿・大久保利通に推薦。大久保邸の土間工事を請け負うことになる。
これは推測なのだけれど私利を廃し改革を断行し時に冷徹とまで言われた大久保利通は長七の実直な性格を一目で見抜いたのではないだろうか?。長七はこのあと維新三傑のもう一人、木戸孝允を紹介され彼の邸宅の工事を請け負ったのを皮切りに僅か数年のうちに宮内省の工事を請け負うまでにのぼりつめている。父譲りの左官の勘があったとしても、つい先だってまで饅頭屋を営んでいた青年には異様とも言える出世。そこには大久保公との信頼関係という後ろ盾があったと観るのが自然ではないか?。長七もその期待に応えるように、この数年のうちに敲き土の改良研究をさらに進め、水中でも頑強にに固まる配合を開発している。のちにお雇い外国人技士たちによって「人造石」と呼ばれるその新素材は水利工事において大変な威力を発揮したらしいし、現在でも世界遺産アンコール・ワットの遺跡修復に採用されているという。また、今では砂防・治水の父として名高いオランダ人技士ヨハニス・デ・レイケの設計による四日市港の潮吹き堤防の独創的アイデアは、施工にあたった長七との共同だったとする説もある。デ・レイケもまた兼業農家の築堤職人の子として生まれ、生え抜きの学者技士ではなく「現場からのたたきあげの人」であったというから二人の交流は想像するに楽しい。
そんな長七が神野金之助の依頼を受け豊橋の牟呂用水と神野新田の改修工事に着手したのが明治26年。長七、53歳の時。新城市一鍬田の牟呂松原頭首工には長七が人造石工法で築いた取水口の美しい石組みが残されている。そのころ長七率いる服部組は東京銀座1丁目に本店を構え、全国数十カ所に支店を持つ大企業にまで成長していた。しかし彼は利益追求の経営には一切興味がなく、その地域に必要とあれば採算度外視の工事まで引き受けたという。そして65歳、突然の引退。以降は岡崎の岩津天満宮の再興にのみ余生を捧げている。
政次郎にしても長七にしても、その生き様の明確さというか・・・無垢さというか・・・選択に澱みがないのは明治という時代のなせるところなのか、現代の私たちには土台無理なことなのかと、つい思ってしまう。
そんなことは決してない。それは今回私がアドバイザーとして関わった展覧会を観てもあきらかだ。
ただ、昨年の震災以降あらゆるものごとの真贋が露呈してしまった。そんな気がしてならない。
2012年1月10日火曜日
清明塚と浜岡原発
2012年1月2日、遠州灘は嵐と呼べそうな猛烈な風。晴明ゆかりと伝えられる場所を訪れるにはふさわしいような気もした。
元旦から伊豆諸島の鳥島でM7の地震。「鳥」という名に何か報せのようなものを感じてしまうのは戯れとしても、地球が今大きく息づいていることは間違いない。
わたしたちはホットミルクの表面に張った薄皮に棲む麹菌のようなものだ。このまたとない奇遇に感謝。
掛川市の横須賀地区(旧大須賀町横須賀)は横須賀城下の入り江を中心とした港町だったらしいが、地震による隆起で港が干上がり現在の姿となったらしい。そのためか古い街並には回船問屋の邸宅が残る。
大野俊治氏らアーティストが毎年ここで開催している「遠州横須賀街道ちっちゃな文化展」というアートイヴェントがある。展示インスタレーションの為に必要とあらば日常の茶の間など生活空間まで差し出すという住民総力を挙げての特異なイヴェント。毎回たいへんな賑わいで来場者は軽く一万人を超えていると思う。
その横須賀地区の海岸に安倍晴明が築いたと伝わる塚があることは聞いていた。今回無性に行ってみたいと思えたのは、その塚が赤い石を積み上げたものだと知ったからだ。
十数年前東京から郷里に戻った頃。わたしはなぜだか石巻山という小さな山に魅入られた。そして探索するうち様々な伝承を知ったのだけれど、それは長くなるのでここではやめておく。ともかくその頃こんな夢を見た。石巻山のような山が山腹から生えた大きな手で土塊をわたしに差し出され、こう述べられた。
「ワレハ、アカネヒメデアル。コレニテワレノスガタヲツクレ。」
この夢について、ある人は「アカネヒメとは赤石山脈から渥美半島に連なる土地、つまりあなたが住んでいる場所のことだ。」と言った。またある人は伊良湖岬あたりの八王子社という神社の祭神に茜姫という名があったような気がすると言ったが確認はしていない。
掛川横須賀地区の清明塚が赤い石で築かれていると知ったとき、わたしはこの夢を思い出した。
伝承によれば・・・というよりこれは民話のようなものだと思うのだけれど、安倍晴明が横須賀地区を訪れた際、住民は将来の津波への恐怖と日頃の波の轟音に悩まされていたという。清明は、津波に三百両、波音に三百両しめて六百両差し出せば悩みを消し去ってしんぜようと言った。住民がまず三百両差し出すと清明は赤い石を集めささせ塚を築き、これより内陸に津波は来ないと言った。しかしさらに三百両は用意出来なかったので波音は今も昔通りに聞こえるという。
これが実際にあった話しだとして、清明は測量の技術も持ち合わせていたというから防災ラインを指し示したのだろうか?。波の音に関しては、もとより消せるはずもないので高額な謝礼を要求した?。そんなことを想像した。
1月2日、遠州灘は嵐と呼べそうな猛烈な風。晴明ゆかりと伝えられる場所を訪れるにはふさわしいような気もした。掛川市街から南に下り国道150号線に突き当たると左方向は浜岡原子力発電所と標識にあった。コンビニで道を訊ねると若い店員がわざわざ店の外に出て案内してくれた、「今日の風は異常ですよ。」と笑いながら。
200mほど離れた防砂林の中に塚はあった。防砂林に入った途端、風がピタリと止んだ。まるでシェルターにでも入ったかのよう。多少不気味な雰囲気を覚悟していたわたしの想像は見事に裏切られた。赤い山茶花が咲き誇り木漏れ日がぽかぽかと温かい、まさにサンクチュアリと呼ぶのがふさわしい場所だった。
不思議なのは海岸からの距離がことのほか近い事。これでは津波防災ライン標識としての役目はとても果たせそうにない。ならばやはり本当に霊的な結界のようなものなのだろうか?。それは計り知れないことだが、この聖域が二度の巨大地震をかいくぐってなお地元の人々に大切に守られていることは事実だ。
浜岡原発という禍々しい現代の神殿と、この愛らしいサンクチュアリが同じ浜辺に並びあることがなんとも奇妙な偶然に思えた。
Wikipediaによるとインフラストラクチャー(infrastructure、略称・インフラ)とは、国民福祉の向上と国民経済の発展に必要な公共施設を指すらしい。
福島原発が順当に石棺化されたとしても今後数十年は確実に維持管理の必要な施設として残存し続ける。それはアンゼルム・キーファーが言うようにわたしたちの文明が残した廃墟芸術なのだろう。
そしてわたしたちはインフラストラクチャー全般の認識、概念を変更せざるを得ない。インフラストラクチャーは今後、向上やら発展といった上向きな矢印とは関係のない、しなやかな有機性を帯び、自ら呼吸をするような存在として多くの人に愛されることだろう。
そうあってほしい。
今日1月10日、以上のようなことを考えていたら正午前に秋葉山を震源とする小さな地震があった。秋葉山は赤石山脈の南端にあり山頂には秋葉神社が鎮座する。祭神は火之迦具土大神。また富士山と伊勢神宮を結ぶ線上に秋葉山は位置する。この線上には浅間などの地名が多い。また豊橋の石巻山など南朝ゆかりの場所も連なっている。では、富士の向こうに線を延ばすと、それはおそらく府中の大国魂神社にあたる。

